アウディの歴史は深かった

今でこそアウディは自動車の世界的ブランドとして確立していますが、その歴史はアウディ自体の統合・成長と他の自動車メーカーとの共同を繰り返すという大変深い足跡をたどっています。その歴史について紐解いてみましょう。

アウディの創業と統合の経緯

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エンジン車が開発されて約15年後のこと、ベンツ社の工場長を勤めていたアウグスト・ホルヒは独立して1901年にドイツ・ザクセン州でホルヒ社を設立します。技術工学の最高学府で学んだホルヒにとっては技術の追求こそが全てであり、当時稀少だったアルミ製エンジンやニッケルクローム鋼の歯車などを積極的に使用して製造コストが嵩み、その挙句に経営陣と対立してしまい1909年にホルヒは自分が設立したホルヒ社から追放されてしまいます。
ホルヒはこの翌年、ホルヒ社の向かいに「ホルヒ」と同じ『よく聞く』という意味を持つラテン語の「アウディ」を社名とする新たな自動車会社を設立します。アウディが製造する車はスポーツイベントで活躍しますが、1920年にはホルヒが退社、1928年にはDKWオーナーのイェルゲン・スカフテ・ラスムッセンにより買収されるに至ります。
第一次世界大戦が勃発するとヨーロッパの生産業は打撃を受け、自動車においてもアメリカ車が台頭するようになります。これに危機感を感じたドイツの自動車メーカーのDKW・アウディ・ホルヒ・ヴァンダラーは合従連衡し、新たにアウトウニオン社を設立して対抗しました。

第二次世界大戦における会社の存続危機とアウディブランドの復活

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アウトウニオン社のもと、DKWと並んでアウディは中~高級を担うブランドとして存続していました。しかし、第二次世界大戦が起こるとアウディブランドは製造中止となり、大戦でドイツが敗北するとアウトウニオン社の工場はソ連に接収されて会社自体が壊滅の危機に瀕する状況に陥りました。そのため生産拠点を西ドイツのインゴルシュタットに移し、戦後数年をかけて何とか製造再開にこぎつけます。
アウトウニオンは再出発直後からクラシカルながらもデザイン性の高い車を開発していましたが、1958年からはダイムラー・ベンツ社の支配を受ける形で生産が行われるようになり、1964年からはフォルクスワーゲンの傘下に入りました。
フォルクスワーゲン社の傘下に入ってから間もなく、アウトウニオンはアウディブランド復活に成功します。この時に発売された75(F103)は前輪駆動の中級セダンでしたが、1969年にロータリーエンジンの設計に定評があったNSU社と合併してより幅広い性能を持った車の製造へと生産の幅を拡大させていきます。この時に社名が「アウディNSUアウトウニオン」に変更され、ようやくアウディという名前が再び日の目を浴びるようになるのです。

アウディのブランドイメージ向上と更なる躍進

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1985年にアウディは、乗用車四輪駆動システム「クアトロ」を開発します。このクアトロシステムを搭載したラリーカーをWRCで走らせて大きな成功を収め、アウディが生産する車がオンロードにおいても高い安定性と走行性能を持っていると証明されました。これによりA8の前身であるV8は高い評価を得て、アウディは世界的なブランドとしてのイメージを確固たるものにしていきます。
90年代に入ってアウディは定番シリーズであるA6・A8・A4(タイプ5)シリーズを相次いで発売し、特にA4が世界的にヒットしたことで、フォルクスワーゲン傘下の高級ブランドであるアウディというイメージから、ベンツやBMWといった高級自動車メーカーと比肩しうる存在にまでブランドイメージを昇華させました。
2005年に入って、アウディは自動車生産において更なる進化を示します。この年発売されたA6に採用されたシングルフレームグリルという相貌は、現在アウディの象徴として認識されています。また、従来から発売していたセダンタイプに加え、SUVタイプのQ7やミッドシップモデルのR8といった車種が発売されました。アウディは現在でも躍進している最中で、その歴史は日々深化を続けているのです。

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